20081228

テレビを見ていたら、フジテレビで面白い番組をやっていた。なんとなく世の中にあふれている常識的なことを疑おう趣旨の番組で、たしか去年もやっていた気がする。

日本の場合、何らかの議題が上がったときにマスコミが中心となって単一的な意見が押し出され、それが世論を洗脳する、ということを、この番組自体マスコミの一部なんだけど、言っていた。

日本人はまじめすぎるんだとも。これほど環境問題のことを気にしている民族はいなくて、ごみの分別もストイックにやる民族はいないらしい。

そのくせ、「その行為の何が環境に悪いのか」という点を説明できる人も少ない。世界学力テストで日本人が特に弱かったポイントが「訳を言うこと」らしい。まじめすぎて、言われたことに疑いを持つ人が少なく、鵜呑みしやすいのか。挙句の果てに、日本国民は政府に言いようにコントロールされていて、「日本人総家畜化計画」にさらされている、らしく。


エコバックを使う方が、レジ袋を使うよりも9倍コストがかかるから、エコバックは無駄、という話なんかは、論点がすり変わっていると思ったが(コストが掛かっても「環境にやさしい」のであればいいじゃないか?)。


思うに、エコとか、ロハスとか、そんな言葉たちは物事の本質を表してない。
そこに問題があるのであれば、その主題をテーマにした言葉ではなくて、そこから副次的に発生するもの(権利、ビジネス、エゴ等)と結び付いた言葉なので、ちょっと胡散臭く感じてしまう。エコだからエコバックを持つんじゃなくて、ビニール袋が気持ち悪いとか、普通にたくさんたまってしまうからもったいないとか、もっと個人的な問題にして、かつエコバックとかいう恥ずかしい名称はやめて、ふだんから使っている布バックを使えばいいのに。

自分が日本語でいう「アート」という言葉にも違和感を感じるのも同じような理由なんだと思う。芸術の本質であったり、本来それらが存在する意味というものは端におかれ、それを活用して何かをたくらもうとするニュアンスを感じてしまう。